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パレスチナ占領50年をアミラ・ハス氏と考える

オスロ合意とは私にとってもう一つの占領です。合意には平和と土地の交換が条件でした。でもオスロ合意はpeace agreement(和平条約)ではなくて、piece agreement(分断条約)でした。真の平和が来たとは思えませんでした。

そう語るのは、両親はホロコーストの被害者であり、「両方の立場」からイスラエル・パレスチナ問題を語ることができ、占領地報道の第一人者として知られるイスラエル人ジャーナリスト、アミラ・ハス氏。イスラエルの有力紙『ハアレツ』紙で占領地特派員として、1993年のオスロ合意直後から20年以上もガザ地区やヨルダン川西岸地区に暮らし、現地からに占領の実態を伝え続けてきた彼女が、この2017年9月に初来日しました。

1947年、国連総会でパレスチナの土地をユダヤ人国家とアラブ人国家に分割するパレスチナ分割決議案が採択されました。ナチス政権の迫害を逃れたユダヤ人がこの地に移り住み、1948年にイスラエルが建国されると、この地に住んでいたパレスチナ人は、土地を失い、結果パレスチナ難民となりました。その占領が始まってから50年、2国家共存は未だ実現できていない中、パレスチナ問題が国際社会から忘れ去られないことを願い、未だに壁の向こう側に閉じ込められ叫び続けているパレスチナの惨状について、ハス氏が語りました。

パレスチナとは、ヨルダンの西にある三重県ほどの面積を持つ「ヨルダン川西岸地区(以下、西岸地区)」と、エジプトの北に位置し、地中海に面した種子島ほどの面積を持つ「ガザ地区(以下、ガザ)」に別れた自治区です。二つの地区の間にイスラエルがあります。1994年以降「パレスチナ自治区となり、パレスチナ自治政府が設立されましたが、今でも独立した国家ではありません。

イスラエルが建国されてから、土地を追放されたパレスチナ人によるイスラエルに対する抵抗運動は続きました。1987年、パレスチナ人のイスラエルによる占領への抵抗である第一次インティファーダがパレスチナで起き、パレスチナ人がイスラエル軍へ投石を行ったことから「石の蜂起」と呼ばれています。その頃、ハス氏は大学院で学業を続けていましたが、このまま学問を続けるは違うと感じ、大学院を退学します。その後、パレスチナ人労働者の権利擁護団体でボランティアを始め、イスラエルの雇用主から西岸地区やガザに暮らす労働者へ取り返した不払金を渡しに西岸地区やガザに足を運びました。当時は、西岸地区やガザからイスラエルに働きに来ることができ、パレスチナ人にも移動の自由がありました。ハス氏自身もパレスチナ人と日常的に関る機会があり、互いに人として知ることができたと言います。

「人と人との触れ合いや交流があった。互いに顔の見える関係があった。それぞれが持つ違いを人間化することができました。」

1993年に和平合意であるオスロ合意を経て、二つのグループの分断は悪化してしまいました。オスロ合意はイスラエル政府とパレスチナ解放機構(PLO)が和平に向けた取り組みを定めた合意で、1)PLOはイスラエルを国家として、またイスラエル政府はPLOをパレスチナの自治政府として相互に承認すること、2)イスラエルが占領した西岸地区とガザの占領地から撤退するこ、この2点が合意され、この問題の平和的解決に向けた歴史的なものでした。

しかし、その後もイスラエルによるパレスチナの地域での占領は終わらず、入植地はさらに拡大を続けることになってしまいました。これは、国際法違反であり、日本政府もその見解を明らかにしています。和平合意であったにも関わらず、イスラエルとパレスチナ間の摩擦は深まる一方で、多くのパレスチナ人にとってのイスラエル人は、入植者か入植地を守る兵士や警察だけになってしまいました。

「パレスチナ人にとって普通のイスラエル人がいなくなってしまいました。」とハス氏は言います。

「オスロ合意とは私にとってもう一つの占領です。合意には平和と土地の交換が条件でした。でもオスロ合意はpeace agreement(和平条約)ではなくて、piece agreement(分断条約)でした。真の平和が来たとは思えませんでした。」

イスラエルによるパレスチナ占領の大きな特徴の一つは、移動の自由の制限です。ガザは世界一人口密度の高い地域と言われており、種子島同程度の面積の場所に約200万人が暮らし、イスラエル政府が発行する許可書がないと、ガザに出入りすることができないことから、「天井のない監獄」とも呼ばれています。

「人や物の行き来がなく、仕事がほとんどないガザに住むパレスチナ人は、移動ができなければ、仕事もできません。移動の自由がないということは、選択肢を失うということです。友人にも会えず、友情も育めない。今日何かをしたい、という気分で自発的に行動することもできなくなります。私は車でエルサレムに車で行けるのに、パレスチナ人はそれができないのです。」とハス氏は話します。

イスラエル側からすれば、この状況は占領ではないと言うであろうとハス氏は語ります。「多くのユダヤ教のナショナリストたちは、これは5,000年前に神に約束された私たちの土地だと言うでしょう。信仰深くないイスラエル人でも神は自分たちにこの土地を約束したと言うかもしれません。これが初期のシオニズムの姿勢でした。つまり、聖書が公式の証拠だということです。他のイスラエル人はアラブ人に攻撃されたのでこの土地を侵略していると。」

60歳を超え、今尚現場に車を走らせ、占領下にいるパレスチナ人やイスラエルによる占領を取材し続けるハス氏は、イスラエルのパレスチナ占領について、同胞から裏切り者と呼ばれたこともあります。イスラエル人である彼女がこの報道を続けることは、決して簡単なことではない中で、イスラエル人として、なぜ占領地特派員として報道を続けるかという質問に対して、こんな答えが返って来ました。

「ジャーナリストも機械ではなく、人間です。客観的に報道すべきですが、人間なので意見があるのは当然。私にとってのジャーナリズムとは、仕事以上のアクティビテズムです。つまり、社会とどのように関わるかということ。仕事を通して、自分の世界観を表現することができることを光栄に思っています。イスラエル人の中にはパレスチナ人のことを犯罪者だと思っている人もいます。私はこの占領が間違っていると思う、それだけです。それが私のスタンスです。歴史を巻き戻しすることはできません。また、歴史には終わりもありません。人間が存在し続ける限り、歴史は今この瞬間にもつくられており、情報を積み重ね、歴史を記録していくことが重要なのです。」

占領地特派員として報道を続ける中で、気をつけていることはあるかという質問に対しては、「この悲惨な状況に慣れないこと。イスラエルの抑圧の構造を平常化しないこと。パレスチナ人をただの犠牲者、受動的な存在として物体化しないこと。そして、彼らは彼ら自身の人生の主導権を持っているということを常に忘れないでいられるように、ジャーナリストとして、また一人の人間として意識しています。」と話してくれました。

50年経っても状況の改善が見られないイスラエル・パレスチナ問題ですが、ハス氏が報道活動を続ける原動力には、怒りがあるといいます。

「この状況に怒りを覚えます。怒りを覚えると同時に、イスラエル人として、この占領から恩恵を受けていることが必ずあります。これはイスラエル人全員に言えることでしょう。イスラエル人である以上、政府が遂行するこの占領の協力者となってしまいます。私はこれを最小化したいのです。私には、移動の自由があります。この自由がなければ、日本に来ることもできませんでした。西岸地区の分断壁はイスラエル社会にとっては分断ではないかもしれませんが、でもパレスチナ人にとって世の終わりです。否定的な意味で、自分は特権を持つ人間なのだと感じますし、特権集団に属しているという意識が年々強くなっていきます。私には”不自由 (un-freedom)”を報道する”自由 (freedom)”があります。イスラエル人である私ができることは、イスラエルによるパレスチナ地区の占領への協力の規模を最小限にすることで、私にとっては記事を書くことはその手段なのです。」

イスラエル・パレスチナ問題を5時間のシンポジウムで全て語り尽くすのはとても無理な話ですが、私はハス氏にどうしても聞いてみたい質問がありました。それは、パレスチナ人にとっての平和とはどんなことだと思うかということです。ハス氏からのその答えは、予想を覆すとても興味深いものでした。

「”世界平和”という言葉には問題があります。オスロ合意は和平合意と呼ばれますが、オスロ合意には中身はなく、平和という言葉を意味のないものにしてしまったと感じています。私には“嫌いな言葉リスト“がありますが、“peace”はそのリストの一番上に来る言葉です。”オスロ”、“対話”、”寛容”、“共存”がその次です。国際社会やイスラエル政府がこういった言葉を使い、空虚な意味のないシニカルな言葉になってしまいました。50年前、2国家共存という議論をした際、パレスチナ社会はユダヤ人国家の存在を認めず、ユダヤ人はパレスチナの存在を認めませんでした。2つのグループは2つの国を持ち、どちらにも権利が与えられました。その最たるものが自決権です。それなのに、その一つのグループは与えられた権利を行使することが許されていません。そこに公平性は存在していません。平等ではないから、本来あるべき権利をより強く感じるでしょう。平等さとは数学的な代数の式のようなものではなく、もっとダイナミックな概念として捉えられるべきなのです。」

ハス氏は続けます。

「イスラエルは1948年のナクバ(大災厄)を認める必要があります。祖国を失うということはどういうことなのか、これによって難民が生まれたことを理解する必要があります。また、イスラエルに暮らす人々はここ以外に行く場所がない人たちであったということも考慮されるべきです。ただ、パレスチナ人にこれに対する責任はないと考えます。ナクバを引き合いに、この二つを天秤にかけることは決してすべきではありませんが、パレスチナ人もこの事実を受け入れることは大切です。」

最後に、日本・国際社会このパレスチナ占領の問題とどう向き合うべきなのか、という質問に対してハス氏は、その答えは私たち日皆に考え、答えてもらいたいと言います。その背景には今回の来日中に、沖縄を訪問する機会があり、現地で戦争を経験した沖縄の人々から話を聞き、それがまるで4-5年前に起こったことのようにその戦争の恐怖を語ってくれこともあるのだと思います。

「今、世界は悲惨な紛争で溢れています。このパレスチナ問題を他の問題や紛争と比較したり、解決の優先順位を付けるたくはありませんが、パレスチナ問題は第3次世界大戦を引き起こす可能性のある、非常に不安定で危険な紛争問題です。日本は直接的なつながりがないように見えるかもしれませんが、国際社会の一員として、皆さんにもこの問題を直視し、対応する義務はあるのではないでしょうか。日本の同盟国であるアメリカが占領の継続を可能にしている大きな要因です。ファシズムに近づいているこの地域の動きには、アメリカの同盟国として、発言の立場を明らかにする責任が日本にもあると思います。」

パレスチナから遠い日本で暮らす私たちは、人間が引き起こしたこの歴史上の出来事を、きちんと記録し、歴史として残し続け、終わりのない歴史をきちんと作っていけるのか。そして、本当の平和を実現できる日は来るのか。その答えにNoになる日が来ないために、何ができるのか。ハス氏は私たちに背中と筆でそれを見せてくれているのだと感じました。

 

<プロフィール>
アミラ・ハス
1956年エルサレム生まれ。1979年ヘブライ大学文学部卒業。1989年イスラエルの有力紙『ハアレツ』に入社。その後、占領地特派員として1993年からガザ地区、1997年からはヨルダン川西岸に住み、現地から報道し続けているイスラエル人ジャーナリスト。パレスチナ占領地報道の第一人者として知られる。両親はホロコーストの生存者。

 

撮影:土井敏邦(撮影日 2017年9月)

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