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「故郷を帰れる街にしたい」ー 地方都市のセクシュアル・マイノリティのために歩き続ける【前編】

日本列島の最北端青森県の青森市で、2014年にたった3人から始まった「青森レインボーパレード」は2018年6月24日、5年目を迎えました。青森レインボーパレード主催メンバーの岡田実穂さんと宇佐美翔子さんがこれまで青森で活動してきた理由を、地方出身のセクシュアル・マイノリティ当事者であるユーチューバー、かずえちゃんが聞きました。

初めて青森レインボーパレードに参加しましたが、歩く前は緊張していた参加者の表情が、だんだんと自信と笑顔に満ち溢れた表情に変わっていった姿が忘れられません。お二人はなぜ青森レインボーパレードを始めたんですか?

宇佐美:私は青森に生まれましたが、20年以上東京や札幌に住んでいました。青森に自分の居場所があると思えなかったし、青森から出ればもう少し楽に生きられるかもしれないと思ったからです。地方ではレズビアンであることだけでなく、個性的であることも生きづらくなるんですよね。その後、長く東京でLGBTQの人たちの困難に向き合い活動していく中で、いつも東京中心で物事が進んでいくことに違和感を感じていました。東京での活動も大事だけど、自分が生まれた故郷に、なにか残せないかと思っていました。2013年に83歳で母が亡くなったことをきっかけに、いよいよ自分が東京で得たノウハウを青森に持って帰る必要があると思いました。東京に仕事があって、ご飯を食べていけていたので、すぐに帰ろうとは思いもしていませんでしたが、パートナーである岡田に「翔子ちゃん、青森帰らなくて後悔しないの?」と言われ、堰を切ったように思いが溢れましたね。「後悔しないわけないじゃん!!!」って泣いて。

岡田:江東区の森下の居酒屋だったね。お母さんが亡くなったのが2013年10月で、今年度で仕事やめよう、ということになりました。コミュニティカフェ・バー「Osora ni Niji wo Kake Mashita」をオープンするために、私が年明けに先に青森に来て、そこから4ヶ月かけて、元々お母さんがやっていた昔ながらのカウンターだけの居酒屋を今の形にしていきました。

宇佐美:母の店には40年の歴史が詰まっていたから片付けも必要でね。私は母と関係が本当に悪かったので、母の足跡に私は触れることが出来ませんでした。だから岡田に先に行ってもらって、母がいたこの場所を整理してもらったんです。

岡田さんは青森出身ではないのに宇佐美さんに「青森に帰らなくて後悔しないの」と声をかけた理由は?

岡田:宇佐美が地方の声を届けるというのは、青森に帰って来て始めたことではなく、ずっと気にかけていたのを知っていたからです。2007年に行われた東京プライドパレードで行われた「青年の主張」のスピーチでも地方からのメッセージを訴えていました。

宇佐美:「青年の主張」では、応募した人の中から選ばれた何人かが立って、LGBTQの権利や、家族関係などを訴えたんです。そこで私は「地方にいる人のことを考えて欲しい」とスピーチをしました。

岡田:青森ねぶた祭の衣装を着て、ひとりで井の頭線に乗って、衣装の鈴をしゃんしゃん鳴らしながら代々木公園まで行き、そこで「地方のことを忘れないでくれ」って、青森からの声を届けているんですよ。国会の院内集会や講座の時も「東京がよくなればいいというわけじゃないんだ」といつも言っていました。

宇佐美:国レベルの法整備が進めば、日本の隅々までその法が及ぶじゃないですか。都会に住んでいても、地方に住んでいても、「法律という保証がある」というのは重要だと思います。セクシュアル・マイノリティであるがゆえに直面する課題をなくすための法整備を、国レベルで早いこと進めたかったんです。

岡田:当時を振り返っても、地方を取り残さないための法改正・ロビー活動だったと思います。それから宇佐美が「青森を捨てるんですね」と言われた、ということがずっと心に残っていました。

宇佐美:2002年頃に母が体調を崩し、青森に帰らざるをえなくなり、2年くらい住みました。その時にクラブイベントやオフ会を開催して、コミュニティの無い青森にLGBTQ当事者同士の繋がる場を作ろうとしていました。でも母との関係が悪すぎたせいで、このまま親のそばにいたらダメになる、と東京に戻りました。その時コミュニティの仲間に「青森を捨てるんですね」と言われたんです。青森を捨てたわけではなく、帰りたくても帰れない故郷を、帰ることのできる場所にしたいという思いはずっと持っていました。母が亡くなった時に、青森でやり残したことをやる時だと思いました。草むらだったところに、歩いた跡がつくくらいでもいいから、自分の次の世代が少しでも歩きやすくなるように足跡を残したいと思ったんです。

岡田:宇佐美が言い始めた「故郷を帰れる場所にしたい」というメッセージは、今はいろんな人がと訴えていますが、それには熱い思いも含まれているんです。

宇佐美:東京で配られたものの表紙は、私だけプラカードが無くなっていたんです。本当は「故郷を帰れる場所にしたい」と掲げていたんですよ。デザイン上の理由とはいえ、コミュニティの人間の生の声を消したということに、傷つきましたしおかしいと感じました。

 

メッセージではなくて、デザイン上の理由で消されたんですよね?

宇佐美:そうです。ツイッターやフェイスブックなどでも発信したところ、たくさんの方々が同じ思いを持っていると表明してくれて。その年(2016年)から様々な場所で「故郷を帰れる街にしたい」のプラカードを掲げて歩いてくださいました。海外のパレードでも掲げてくれた方がいらっしゃいました。プラカードに書くメッセージというのは、限られたスペースにその時にどうしても伝えたいと思うことを書きます。たくさんの思いの中から厳選した言葉です。そういった大事な言葉を多くの皆さんと共有できたことには、やはり理由があると感じています。「故郷を帰れる街にしたい」今ではこの言葉にはたくさん方の思いがこもっています。

 

東京と青森、それぞれの地での活動を経験し、セクシュアル・マイノリティに関する権利の訴えの伝わり方が違う、もしくは自分たちの伝え方が変わるなと感じることはありますか?

岡田:地方では、経験値をゼロから作らなければならないことですね。例えば、東京でイベントをやると、8割以上はその問題について知っている人が来ます。でも地方だと、告知の時点でほとんどの人が知りません。人も少ないから、目の前の人にゼロスタートで伝えなければならないし、理解をしてもらわないといけません。東京では、やればやっただけ達成感を得られます。上手くいかなかった時は、自分にも原因があるなと思い当たりもするんですが、地方だと自分たちが精一杯やりきっても、成果がでないことも多くあります。

 

1年目は3人で歩いたと仰ってましたよね?広報もしてないとか。

宇佐美:そうですね。自分たちのためという側面が強かったので。これから青森でカミングアウトして生きていく、このコミュニティカフェ・バー「Osora ni Niji wo Kake Mashita」をオープンするという意思表明でもありました。生まれた場所によって、諦めなければいけないこと多いという点に抗いたいところはあって、東京で何万人というパレードをするのを横目に「青森だもん、仕方ないね」って諦める自分ではいたくありませんでした。どこにいても、同じ思いを抱えている人はたくさんいて、東京と地方は違うけど、日本人として同じ時代を生きているし、同じ社会的課題のもと地続きの場所で生きている感覚というのを、自分たちも実感したかったんです。パレードを通じて青森でもやろうと思えばできるよ、ということを伝えたかった。

 

主催者となって自分たち以外の思いを背負う上で感じた責任は?

宇佐美:公募でパレードの実行委員を募集する時に思ったことは、東京みたいに「色んな人が歩いているんですね」という風にはならないと思ったんです。「あそこを歩いている人たちが、そういう人(セクシュアル・マイノリティ)なんだね」という見られ方をされる予想はつきました。

岡田:責任・リスクという点では、地方で活動するみんなが地方でパレードするのは怖いと思うのに、私たちはそう思わなかったのにはたぶん理由があって。宇佐美は家庭内暴力被害者の支援を、私は性暴力被害者の権利擁護活動をやってきていたんです。困難なところで、人をサポートするとか、声をあげ続けるということが不可欠な仕事なので、リスクに対する恐怖心はあまりなく、普段通り対応する、という思いでした。

宇佐美:セクシュアル・マイノリティの人から相談を聞くという仕事も長くやっているので、参加者が「歩くぞ!」という気持ちで来たけど過呼吸になってしまうとか、そういうことが起きる前兆を察知するのは人より早いかもしれません。

岡田:パレード中も宇佐美と2人で行ったり来たりするのは、歩いてるみなさんの様子を確認するためなんですよね。それに、パレードに来て嫌な思いをする人がいないようにというのは気をつけますね。セクシュアル・マイノリティであることを公言している人もそうでない人も、それぞれがお互いの場所で頑張れればいいと思っているので、それぞれが尊重されるパレードの形で、みんなを守れるようにと思っています。

宇佐美:メディアで東京のレインボーパレードを見て、楽しそうだなと思って青森のパレードに来てみたら「思ったより緊張感がある」という場合もあるんだよね。

岡田:スタッフの気持ちの整理やパレードに向けた思いの共有も単純ではありません。立ち上がる選択をした人たちが、どんどん知らないことを経験していくんです。実際にやりたいって言ったけど何をするかもわからず来る人も多く、「みんなの前に立つんだ」というのを現実味をもって理解するのにも時間がかかる。

宇佐美:漠然とした怖さが急に具体的になるんですよ。例えばポスターが完成して配るぞという時に「これ配った時に『あなたもそういう人なの?』って言われたら、なんて答えたらいいんですか?」って私に聞くんですよ。スタッフには当事者もそうでない人もどっちもいますが、ポスター1枚配る時に、改めて自分にとって怖いことは何か、向き合わなくてはいけなくなるんです。家族の反応や友達の反応が怖いんです。

 

近すぎて怖いんですね

宇佐美:私の親も昭和一桁の年の生まれですが、メディアでレインボーフラッグが取り上げられるようになった頃、「あ、知ってる、それってお前が持ってる変態のやつだろ」って言われて。知名度が上がっても、自分のモノサシのうちで解釈するから「レインボーが多様性を表している」ではなく、「これがテレビでやってる変態達が持っている旗か」って思っている人もいるわけです。そんな状況で、ポスター配ることがどれほど大きいことかってことですよ。そういう時に、何かしようと思ったのに結局何もできない、という自己嫌悪に陥りもするから、無理することじゃない、できる出来る人がやればいいっていうのは伝えます。

 

様々なことがありながら青森レインボーパレードをこれまで続けて来た理由はなんですか?

岡田:やめようって毎回言っていたよね。20人、50人のパレードでも開催前後の様々な反響に対しての対応など、本当に疲れますし。でも終わってみると、来年もやるかという気になって。今回もパレード後に「もうやめます」と言ったけど、来年も続けたい気持ちもあって。基本的にパレードをすることが楽しいんじゃないかな。

宇佐美:ちょっと時間が経って、SNSなんかで感想や声が上がっているのを見て、やってよかったなと思うんですよ。歩いてよかったという声や笑顔を思い出して、来年来る人にも同じ気持ちになってほしいなと思うんです。自分たちにとってもリアリティをもって、参加者の顔や思いが積み上がっていく。もし来年やったら、今まで一歩踏み出せなかったけど、やっと参加しようという気持ちになった人がいるのかも、と思うとやめられません。健康上の理由から来年パレードをすることはできませんが、セクシュアル・マイノリティの人権については、終わりが来るものではないので、ただやり続けていることです。自分が歳をとった時に、次の世代がバトンをもらってくれる、そうして歴史が脈々と受け継がれていくのだと思います。ずっとやるのよ、常に何か訴えることがあって。だから、私たちがやっているのも、その歴史の中の一部分にすぎないんだよね。

 

 

▶︎後編へつづく

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